

では、どのような経緯で佃島で佃煮・甘露煮が作られるようになったのでしょうか。

天あの時、地の利を味方につけ天下目前の織田信長は中国地方遠征の為、本能寺に駐留していたが、人の和には恵まれず明智光秀の謀反に遭い明智軍勢に攻め立てられ、紅蓮の炎の中自害し、49歳にてこの世を去りました。

一方、数日前、織田信長に謁見し、杯を傾けた盟友徳川家康は、その時大阪堺にいました。 信長死すの報を受けた家康は自らの危険を察知し、すぐさま居城のある岡崎(現愛知県岡崎市)に帰ろうとしましたが、すでに京都は明智勢に押さえられ、帰路にあたる奈良街道も、明智の盟友筒井勢が押さえ、陸路はすべて塞がれた状態にありました。
側近として仕えていた伊賀忍者の服部半蔵は、機転を利かせ海路脱出を図ります。 住吉・佃の漁師に船を出してもらえるよう依頼し、快く受けた佃の漁師たちは海路で家康を紀伊半島に 送り届けました。また、漁師たちは帰路の道中にと、漁師の保存食「潮炊き」の小魚を分け与えました。 この「潮炊き」こそ佃煮のルーツとなり現代まで受け継がれているのです。
伊賀忍者の先導とその潮炊きのおかげで、家康は無事帰りつき、その後は天下取りに邁進します。 また、佃の漁師たちとの交流も続き、大阪冬の陣、夏の陣においては、大阪城の出入り漁師に扮し、 大阪方の情報を徳川方に伝えていました。
この「潮炊き」がなければ家康は天下を取れなかったかもしれません。 そして佃煮・甘露煮は後世に残らなかったかもしれませんね。

関が原の戦い(1600年)を征した徳川家康はその3年後江戸に幕府を開きます。 そして御用漁師に佃の漁師を呼び寄せ、その後、今の佃島に住まわせたことから「佃煮」は参勤交代に訪れる大名たちにより全国に広まって行きました。
幾重にも織り成された佃煮の歴史。 その始まりは6月2日の日本史上最大の謀反 「本能寺の変」であったと言えます。 私ども佃煮・甘露煮を製造する者にとっては、 それはとても意味の深い日でもあるのです。
また、6(ろ)2(に)と甘露煮の「ろに」の語呂合わせも
よいことから、6月2日を「甘露煮の日」と制定されました。